1834年 3月 江戸

縁側に腰掛け、ぼんやりと空を見上げる男がいた。
今日は快晴、春爛漫。

「だ、旦那様〜!」

向こうからドタバタという足音と共に、1人の女がやってきた。
男はガバッと立ち上がった。

「産まれたか?」

産婆の助手として来ていたその女性はこくこくと頷いた。

「男か?女か?」
「はい。かわいらしい女子の赤ちゃんでございます」

男の顔が一瞬曇った。が、女に悟られまいとすぐに笑顔になった。

「そうかぁ。まあ元気に産まれてくれたならそれに越したことはねぇ。どれ、娘に会いに行くか」
「はい。こっちですよ」

男は女について、娘の待つ部屋へと向かった。

この男、名を近藤周助といった。周助は天然理心流の3代目宗家を務めている。理心流は侍の間では「イモ剣流」と呼ばれ相手にされなかったが、強盗退治に役立つからと、農民層には人気があった。
とは言え、農民に人気といっても、稽古料として入ってくる収入はたかが知れている。現在周助は出稽古でなんとか生計を立てていた。

そして、お金がない、ということと同じくらい重大な問題があった。後継ぎ問題である。
周助は養子の身分で、元は農民だった。2代宗家も養子であり、天然理心流の宗家には代々血の繋がりがなかった。

では、4代目はついに周助の実の息子が・・・と最初は誰もが考えた。
周助自身も、そろそろ血の繋がった跡目が欲しかった。が、次第にそう考えるのも難しくなっていた。

今、無事女の子を出産した周助の妻・初は周助にとって8人目の妻である。周助は顔こそ美形とは言えないが、愛想の良さや巧みな話術で女性を惹きつけることのできる男だった。そんなこんなで今まで7人の妻を迎えたわけだが、誰一人として周助の子をもうけることはできなかった。8人目の初も、同じだろうと周助は思っていた。跡目ができなくても、初と2人で幸せに暮らせればいい、4代目は養子になるだろうが、きっと才能ある若者を迎えようと心に決めていた。

その矢先の出来事だった。初が懐妊したのだ。
周助も、門人たちも、小躍りして喜んだ。

男が産まれたら―――

誰もが2分の1の確率に期待した。男なら、これで後継ぎ問題は解決する。



まあ、産まれた子にも、初にも罪はねぇ。

周助は一人で力なく微笑んだ。妻、そしてまだ見ぬ娘に対し一瞬でもがっかりしたことに対する罪悪感がチクリと周助の胸を刺した。
周助は自分で自分の頬をバシッと叩いた。
産婆助手の女が振り返った。

「どうかしましたか?」
「いや、なんでもねぇ・・・」

女は首を傾げたが、大して気にしない風で残りの数歩を歩いた。

「本当にかわいらしいんですよ」女はにっこりと笑うと初が出産した部屋の前に座った。
「奥様、旦那様をお連れしました」
「どうぞ」初の声がし、女は襖を開けた。

周助は中を見た。やや疲れたような、それでいて幸せそうな微笑みを浮かべた初が部屋の真ん中で横になっていた。
その横には、真新しいおくるみな包まれた赤ん坊が、そこから出した小さな手をバタつかせながらどこを見るともなく真っ黒な瞳をくるくると動かしていた。

「お初、やったな」周助は笑みを浮かべ、妻の枕元に座った。
「かわいらしいでしょう」初も笑みを返した。
「ああ。最高だよ」

初は少し寂しげに微笑んだ。

「どうした?」
「いえ。ただその・・・なんでもありません」

周助も初の気持ちはわかっているつもりだった。後継ぎを産めなかったことに対し、申し訳なく思っているのだろう。
だが、互いに「女が産まれて残念だ」という内容のことを言えば、何も知らずに傍で横たわる娘に失礼というものだ。
周助は奥に正座していた産婆に断ってから、赤ん坊を抱いた。赤ん坊はきょとんとしたような目で父親を見上げた。

「ははっ、いい目をしてるじゃねぇか」

男のように、強くて頑とした目だ。

周助はぼんやりと赤ん坊を揺さぶりながら、じっとその目を見た。ふと、ある考えが思いついた。
この子を男として育てれば・・・
女子であることを知っているのはこの部屋の4人だけ。もしかしたら、もしかしたら、いけるかもしれない―――

「あなた?」

周助はハッと我に返った。

「どうかしましたか?怖い顔をして」
「いや、なんでもねぇ」
「・・・名前はどうしましょうか。こんな季節だし、ハル?それじゃ単純ですね。ハナ・・・ウメ・・・」

どれもしっくり来ないと言いながらも楽しそうに名前候補を挙げていく初を、周助はじっと見つめた。候補はもちろん、全部女子の名前だ。

周助は、今し方自らの脳裏によぎった考えを封印し、自分を恥じた。
女子として産まれた者を、男として育てるなど・・・。そんなこと、妻にも娘にも失礼極まりない。

「名前・・・そうだな・・・」

周助は赤ん坊に目を戻した。

そのうちこの子に弟ができるかもしれない。
この子が男だったとしても、剣術の才能がない子かもしれない。
才能ある若者を養子に迎えた方が、天然理心流のためにはいいのかもしれない。
天然理心流とは、結局そういう運命にあるものなのかもしれない。

周助は自分にそう言い聞かせた。女として、この赤ん坊をこれから育てていくのだと、腹をくくった。

その時、桜の花びらが、ふわり、と部屋の中に舞い込んできた。花びらは赤ん坊の頬にそっとのった。
周助は外を見た。庭にある一本の桜が、いつの間にか満開になっていた。周助は赤ん坊の頬にのった花びらを指で摘んでじっと見つめた。

女子じゃダメだなんて道理がどこにある?
ああ、そうだ。
そんな女だってアリじゃねぇか。

「なぁ、女子に剣術を身につけられると思うか?」周助は花びらを見つめたまま、おもむろに言った。

初は少し驚いたような顔をし、周助が花びらを摘んでいるのに気づくと、庭の桜の木を見た。どっしりとした一本桜からは、時々はらりはらりと花びらが散っていた。

「この子に・・・理心流を?」

周斎は力強く頷いた。

「きっとできますわ。女子というものは、殿方よりも、ずっとずっと強いんですから」

にこりと微笑んだ周斎は、花びらを初に手渡した。

「決めた。この子の名前はさくらだ。」
「さくら・・・?」
「ああ。桜の花が美しく咲いて潔く散るのはまさに侍の姿だ。俺はこの子に、俺の天然理心流を全て叩き込む!」
「素敵な名前ですね」

初は隣で眠る娘を見つめた。

「武士の心を持った、強い女子に・・・」
「ああ。こいつならなれる」
「ふふ・・・楽しみですね」

2人はにこりと微笑んだ。
桜の花びらがまた、1つ、2つと部屋の中に舞い込んだ。








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